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「その多言語、必要ですか?」本当に必要な多言語対応を、街中の案内から考える〈エリックの多言語文字散歩〉

いきなりですが、街角の商業施設でこんな看板を見たら、皆さんはどう思いますか?

上の図は、実在する看板の写真をもとに再現したものです。

ATMという文字列がなぜか5回も重複して書かれていました。主張が強いATMだなと思いつつ、隣にある化粧室の案内も見たところ、何度もATMと書かれている理由がようやくわかりました。どうやらそれぞれ日本語・英語表記と、中国語簡体字・繁体字・ハングルを表現しているようです。


その多言語、必要ですか?

昔、先輩から「国際空港に着き二カ国語表記の案内看板を見て、初めて出国する実感が湧いてくる」という話を聞いたことがあります。しかし昨今は、国際化が進みインバウンド需要も増え、街中の交通機関や商業施設の案内はもちろん、家電の操作パネルや液晶、メーカーの公式サイトまで、日常生活のいたるところで多言語表記を目にします。

対応する言語の数も年々増えているようです。和英併記はもはやスタンダードになり、中国語と韓国語も追加されています。地域によってはポルトガル語やロシア語も見かけます。観光名所では四カ国語、五カ国語の看板も見かけるようになりました。

対応する言語が増えると、看板を考える現場はなかなか大変です。五カ国語が必要と言われて、翻訳した文字を流れ作業のように五カ国語でそのまま貼り付けると、冒頭の図のように「ATM」が増殖してしまいます。

つまり多言語化とはいえ、すべての言語を安易に全訳してはいけません。一歩退いて、多言語化は本当に必要かどうか、案内を制作する目的に合うかどうか、事前に検証する作業が成功のカギとなります。

多言語化する前にまず方針を

最近買ったファストファッションのブランドでは、言語ごとの製品タグが5、6枚も重なり、まるで冊子のようでした。多言語化もそれぞれの目的が違いますから、まずは用途に応じて方針を決めましょう。

例えば看板の場合、実務から考えればまず考えられるのはスペースの制限です。看板自体のサイズはもうこれ以上拡大できませんし、案内表示にとっては視認性が命ですので、簡潔にまとめるのも重要でしょう。また適宜省略する場合も出てきます。小さいサイズで同じATMの文字を何回も繰り返して書くよりは、大きいサイズで一回書く方がよほど効果的です。

一方、ウェブサイトなどの画面では、スクロールすればいくらでも長く作れます。読者が落ち着いて閲覧できるように、多言語化は地域ごとに対応したサービスの一部として展開しているため、「言語」と「地域」の組合せで細かく分けて制作する場合が多いでしょう。例えば企業のウェブサイトで、「カナダ向けのフランス語ページ」は、「フランス向けのフランス語ページ」とは別バージョンとして制作します。通貨や価格はもちろん違いますし、販促用のキャッチコピーも別の文章を使用します。

中国語でも、安易に簡体字・繁体字に二分するのではなく、中国本土・香港・台湾など地域ごとに分ける必要がないか、よく検討することが重要です。

同じ漢字で便利ですが……

通常の多言語対応ではできるだけ公平に、特定の言語に偏らないよう併記することが原則です。

とはいえ、日本で中国語を追加したくても、中国語も漢字を使っているため、しばしば全く同じ字体になる場合があります。特に看板などの案内表示の場合、スペースに厳しい制限があるため、思い切って省略することも検討しましょう。下の写真は東京メトロの出口案内ですが、これを見て「ハングルがあるのに、なんで中国語はないの?」なんて怒ったりはしません。「出口」は日本語と中国語とは全く同じで、重複して書く必要はありません。

看板・サイネージの多言語化については、こんな話を聞いたことがあります。とある日本の鉄道会社がすべての駅名標に中国語表記を追加し、中国人観光客を対象にその効果についてアンケートを実施しました。結果は、ほとんどの中国人は「見ていません」「気づいていませんでした」と回答していたそうです。それもそのはずで、駅名の日本漢字は中国語表記より何倍も大きいですし、駅名標を見るのはほんのわずか数秒なのですから。

デザイン上の一工夫

日本語と中国語など、同じ文字で余計にわかりにくくなる現象は、漢字文化圏特有の悩みではありません。欧米でも同様です。とにかく同じラテンアルファベットで表記する言語が多いですから、表記はとても似ています。

こんなときこそ、デザインの力を発揮すべきです。似ているような文字列を、わかりやすく仕分ける方法はいくつもあります。タイポグラフィの基本手法として、欧文ならイタリックを活用して書体で分けたり、また文字のサイズ、色などに変化を持たせたりします。これによって情報が階層化されて見やすくなります。

下の写真は筆者が撮影した北アフリカ・モロッコのカサブランカ空港の標識です。英語・フランス語・アラビア語の三カ国語併記ですが、英語はイタリック体、フランス語は正体、アラビア語は黄色と、それぞれのスタイルで表現しています。

多言語化をすると、本質的に情報が倍増してしまいます。よく見る日・英・中の三カ国語併記の場合、単純計算でも文字情報は三倍になります。情報が増えていてもきちんと整理してからデザインしないと、なかなか伝わらない、残念な結果になってしまいがちです。

今回は「その多言語、本当に必要ですか?」という質問をきっかけに、多言語の考え方について書きました。まず事前検証しながら用途によって、方針を決めましょう。検証を重ねると、答えが出やすくなります。目的を明確にして、優先順位を決めてから、それに合う最適な表現を考えましょう。

著者プロフィール

エリック・リュウ
中国生まれ、東京在住。The Type編集者、W3CのInvited Expertとして「中国語組版要件」議長担当。ニューヨークTDC顧問理事。日中韓を始めファンドリー数社の多言語書体プロジェクトでコンサルタントを務める。著書に『孔雀プロジェクト:中国語組版考え方の再建』、訳書に小林章氏の『欧文書体』『欧文書体2』など多数。

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